ヴェーバー『職業としての学問』

職業としての学問 (岩波文庫)

職業としての学問 (岩波文庫)

今日の朝に、「圏外からのひとこと」経由であるブログを読んでいたら『職業としての学問』を引用しているのだが、あれっていう内容(以下)だったので、2年ぶりに思わず再読。やはり、そのブログに書かれていることと、引用の内容があまりに噛み合わない・・・。

研究しないで方法論ばかりだとジャックは馬鹿になる/職業としての学問

ウェーバーは「職業としての科学」の中で
・政策と学問を同時に教えてはいけない
・したがって、大学では政策を教えてはいけない
・何々であると何々すべきを混同してはいけない
・学際的な方向性はよろしからず、研究者はその専門性を深めることに注力すべし

といったことを主張している。その理由は何なのだろうか。

とのことですが、ちょっと違うかなと。「学際的な方向性は・・・」とは一切言及していませんね。存在(Sein)と所為(Sollen)の峻別に関してはこの本でも明らかな通り、当時学問の形をしながら教壇で自分の政治的主張を一方的に教える教師が存在するということに対しての危機感からこの発言があったことは明らかです。
また「研究者はその専門性を深めることに注意すべし」という点に関しても*1そんな単純な話ではなく、学問を天職とする者に対する心構えに対して警告を加えたわけです。いくら学問研究に没頭したところで、自分の研究は後世の学者によって反証され、時代遅れになってしまう。また学問の価値は世界が脱魔術化を遂げた現代においては、その学問前提を拒否する者に対して基本的価値を提出することが出来ない。
それでもなお、そういった反証可能性に照らされ、基本的価値を見出せないことを肯定することこそ、学者の持つ前提であるということが彼の主張でしょう。ニーチェ永劫回帰の思想を踏まえたヴェーバーの主張は、研究者はその専門性に従事する際は、その日常生活に対する無価値性を絶対肯定することが研究者の持つ心構えだいうことです。
その後のエントリーの内容もヴェーバーの主張とは異なるのでは・・・。専門性の弊害と反証可能性の確保を彼は天秤にかけてはいないでしょう。何度も言いますが学問の価値はそれ自体主観的なもので、それをSeinを扱う学問では基礎付けることが出来ない。そういった現状に対して「男らしく」それを認め、なおそれを肯定せよ。それが出来ない者は、「ザッヘ(日々の仕事)に (・∀・)カエレ!」と脅すわけです。


そんなことはともかく、2年ぶりに読み返して見るとかつて見えていなかったことが見えてきたりしますね。まるでニーチェさながらなことを、恫喝するように語るわけです。パフォーマティブに読むと違った次元で事態が立ち上がってくるのですよ。

*1:確かにそう主張はしているが、それは専門を情熱的に突き詰めたら語りつくせない幸福がまっているという話