ヴィタール

これは前から観たかったけれどもどうしても予定が合わず見逃してしまったという作品。やっぱ塚本晋也ほんと凄い…。

「鉄男」「東京フィスト」「バレット・バレエ」「六月の蛇*1の一連の作品で塚本晋也が執拗なまでに描いてきたのが、コンクリートで囲まれた都市の中で如何にして自己を回復するのかということのように思う。それは死んでるか生きているかわからない表情をした主人公たちが、暴力などのによって身体性を獲得することによってなされた。都市空間において、結果として彼らは「壊れる」ことでしか自己の自然を回復することができない(勿論壊れることへの肯定的意味合いは含まれていると思うが)。「六月の蛇」では今まで顕著だった肉体的暴力がもっと研ぎ澄まされ精神的な暴力へと昇華される事となった。
以下、ネタばれ注意。ヴィタールは今までの一連の作品とは異なり、壊れた後の回復について描かれていっても過言ではない。主人公は交通事故によって意識を失った元医大生。彼は父母の顔も覚えていないが、医学書に執拗なまでの興味を示し、再び医大へと入学する。解剖の授業で献体の身体を解剖し、臓器の隅々までを丁寧にスケッチしていく中で、かつての恋人の存在を思い出す。どんどん身体の内部へと迫っていくにつれ眩暈のような感覚に襲われ、薄暗い解剖室とは対照的な明るい海と空の世界へとトリップし、かつての恋人と再会、彼女は激しく舞踏を踊りだす。
記憶が少しずつ回復した主人公が思い出したのは、死者の目をし死の匂いのする恋人と同じような自分。彼女は主人公と共に車に乗り事故に合い死んでいたのである。そしてこの献体こそかつての彼女であった。

この映画で面白いのは、「こっち」で生きている主人公とその主人公に惹かれる女子医大生が死んだような目をしているのに対し、死んだはずの恋人が記憶にも現実にもない「あっち」の世界で生き生きと踊っている、この捩れだ。ほの暗い現実とまばゆいばかりの「あちら」の世界。主人公は解剖をしている間、あちらの世界へとトリップし恋人と逢うことができる。
4ヶ月にわたる献体も終わるころ、半ば「楽園」を追い出される形で主人公は現実の世界へと舞い戻る。解剖を終えた献体が荼毘に付された時の空は長い間降り注いだ雨があがって明るい緑が前面に広がる。
この映画の主人公はレオナルド・ダ・ヴィンチをモデルとして作られたらしい。人体を仔細に解剖し観察することで自然の摂理に開かれたダ・ヴィンチのようにきっとこの主人公も身近でありながら遠い存在である身体をつぶさに見ることで驚きを禁じえなかったに違いない。

「楽園」へと意識を飛ばしたり、村上春樹「世界の終わり〜」みたいに向こうの世界で生きることするのではなく、現にある身体持つ自然の摂理に気づくことで、ほの暗い都市でも明るい世界を回復できる。ただし、この映画の台詞にあるように「体の内部を観察することは医学を志す者の特権」であり、非常に厳しい気もするんだけど…。

予断ながらラストの会話がすごいぞくっとしました。匂いのする映像ってこういうのをいうのね。

*1:双生児はまだ観てないんだよね…