カナリア@新宿武蔵野館

子供たちは今も、世界の最前線に立っている

ASIN:B0007G8DD8
タイトル:カナリア
監督:塩田明彦
出演: 石田法嗣谷村美月西島秀俊、りょう、つぐみ、甲田益也子
公開:2005年
場所:新宿武蔵野館
URL:http://www.shirous.com/canary/index.html

金曜日が公園最終日でどうしても観たかったので筆記後観に行くことに。色々なレビューサイト見ると微妙な感想が多いが、断固支持します。というかみんな勘違いしすぎ。確かに途中冗長でテンポ悪いけど、ラストはすこしえっ、と思ったけど個人的にはオッケーです。この映画はオウム真理教をモデルにして作られた映画。ストーリーは公式HPから引用すると

少年の名は光一、12歳。母に連れられてカルト教団ニルヴァーナ》の施設で妹とともに数年を過ごしたが、カルト崩壊後、関西の児童相談所に預けられた。だが祖父は、光一より4つ年下の妹、朝子だけを引き取っていく。母の行方はわからないままだ。光一は偶然助けた少女・由希とともに、引き離された妹と母を取り戻すため、東京にいる祖父の元へと向かう。
ワゴン車で旅をする謎めいた二人の女性・咲樹と梢、《ニルヴァーナ》で子どもたちの教育係だった伊沢…、さまざまな形で「家族」を作ろうとしている大人たちに助けられながら、光一と由希は旅をつづける。互いに反発し合いながらも、次第に心を開き、絆を結んでいく二人。だがその先には、自分たちの運命を大きく揺さぶる出来事が待ち受けていた…。

冒頭では光一は教団での教えの呪縛が解けていなかったが、由希と出会い、妹と母を捜しに行く過程で衝突を起こしながらも旅を続ける。旅の中では光一はまだ教義を引きずっていたが、教団の元信者で教育係だった伊沢との再会し、一時的に家族を営む。旅たつときの伊沢の言葉が象徴的。汚れた現実とは違った真理が宗教にあったように思っていたが、それももうひとつの現実であって、どこまでいっても現実でしかない。つまりこの世界には逃げることが出来る外部が存在しない。ではどうするのか?それは
「俺が俺でしかないように、お前はお前以外の何者でもない」のであって、その重みに負けてはならない。自分を正当化する真理は外には存在しないのであって自分で正当化させていかなくてはならないのだ。まだここでは光一はこの言葉を飲み込めない。
ラストで衝撃的な事件があって光一は悲しみ狂うが最終的に生きていく選択をする。村上春樹海辺のカフカ」でのラストと全く正反対。

この映画に出てくる光一と由希は12歳ながら社会的文脈を生きていない。光一は反社会的宗教に染まり、由希は父親から暴力を振るわれ出会い系サイトで金を稼ぐ。こんな二人がありえないような逆境に陥ってなお社会を「生き」ていく。イニシエーションみたいな。社会からはじかれていてなお悲劇をえることでもっと遠い地平に立つことが出来る。
私たちはともすれば、外的な根拠に頼ってしまう。就活中とか特に自分や社会の明るい未来とか、そういったものに。またキャリア志向の人とは逆に、サスリブとか、持続可能な生活とかコミュニティとかに耽溺する人が増加しているように。けど、そういった所に頼ったところでそれもシステムが作り出す現実に他ならないのであって、結局その仕組みから出ているわけではない。むしろ補完的関係にある。そういった外のない絶望的な現実においても、あえてそういった現実を選択していくことが可能ということを示唆しているんでは?
そういった意味でポストオウム時代の全てが現実の構成物という状況下におけるひとつの提案というか処方箋みたいな感じを受けた。

まあ、かなり荒削りで冗長だけど、好きです。しっとり終わると思いきや、ラストのZAZEN BOYSの「自問自答」のラップ(?)でガツンとやられた。この映画はこの曲でなければ終わることが出来ない、というかこの曲がなきゃ出来ていないかも、と思ってみたり。いや多分そう。
あとヒロイン役の谷村美月がかわいすぎる。ありえない、このかわいさ。演技のうまい下手とかはよく分からんが引き込まれてしまったよ。